BIOGRAPHY

At Hot box in Kensington of Toronto,Canada in September.

 

『きっかけはザ・ブルーハーツ』

 

1999年(当時16歳)にTHE BLUE HEARTSのライブ盤CD””を聴き、音楽にのめりこむようになる。試行錯誤の末、バンドを結成し、『将来は絶対に音楽で飯を食えるようになる!』という熱い思いと共にバンドのボーカルとして音楽活動をスタートさせる。

 

ALL20SOLD

THE BLUE HEATS – LIVE ALL SOLD OUT

      1980年代後半から1990年代前半にかけて活動し、今なお多くの人々に影響を与え続ける伝説のパンクロックバンド。”LIVE ALL SOLD OUT”はそのブルーハーツの初ライブ盤CD.

 

 

2003年(当時19歳)までにはオリジナル曲も作り、多くのライブ演奏もこなしてきたがその経験の結果、『日本で音楽だけで生計を立てるのは夢のまた夢だ』と実感し、バンドを辞め、インドへ放浪の旅に出る。

 

『ブルースとの出会い』

 

2005年(当時22歳)の時にワーキングホリデーで行ったニュージーランドの地方情報誌で一人でブルースを路上演奏して生計を立てている日本人がいることを知る。帰国後、ブルースのクールさとシンプルさに魅かれた彼は毎日15時間をギターの練習に費やすという生活を一か月続け、ブルースの基礎を学んだのち、日本でブルースを生演奏で聞けるお店に聴きにいくが、そこで自分の探し求めるブルースに出会うことはできなかった。

2005年(当時23歳)に自分の求めるブルースを探しにアメリカのシカゴへと海を渡る。
日中はギターやハーモニカを演奏しながら路上で歌を歌って過ごし、夜になると毎日のようにBarにブルースの生演奏を聴きに行った。この時、路上で観たバケツドラムのバスキングが現在の音楽スタイルに大きな影響を与えている。
しかし、本場のブルースに感動は覚えたもの、シカゴブルース(エレキギターに歌)が主流のシカゴでは彼が探し求めていたデルタブルース(アコギ一本で聞かせるような歌)には出会うことが出来ず、3週間で日本に帰国する。

シカゴブルース ― エレキギターの音色でブルースを演奏するスタイル。

 

デルタブルース - アコギ一本で聞かせるようなブルース。YUSUKEが求めていたこのデルタブルースには、結局シカゴで出会うことはできなかった。

 

『旅の始まり』

 

2007年(当時24歳)、アメリカでブルースの師を見つけ出すことが出来なかった彼は、ワーキングホリデーでオーストラリアに行くことを決意する。
『ただ飛行機で飛んでも面白くない』と考えた彼は、Giant社製のGreat Journeyという長距離向けの自転車を購入し、少ない荷物と自転車のメンテナンス本を持ち、オーストラリアへと向けて旅立った。

2008年(当時24歳)、実家の千葉から出発した自転車の旅の道中、ラオスのパクセにて北京からパリまでをマウンテンバイクで旅しているアメリカ人マウンテンバイクチームの4人組と出合い、5人でパーティを組みタイのバンコクまで行動を共にする。
同走者達の載せていた楽器と、日本から持ってきたミニギターで休憩中やキャンプ中にジャムセッションをし、カンボジアで小さな村の中の小学校を見つけては飛び込みで楽器の演奏と共に自分たちの国の紹介をして回った。

http://fueledbyrice.org/

アメリカ人のマウンテンバイクチームのWebサイト。YUSUKEは2007‐2008の旅の一部を共に走った。

 

道中レポート。YUSUKEが走ってる姿が映されている。

 

『ブルースギターの師との出会い』

 

2008年(当時25歳)の10月、無事オーストラリアについてから3か月。ヒッチハイクをしながら地元の人に季節労働がある街を教えてもらい、またヒッチハイクして、働いたら移動する生活をしていた。
そんなある日、ギターを持って歩いていたところを全身刺青だらけの危なそうな男に呼び止められ、その男に言われるがままに車に同乗した。この男との出会いがその後の音楽に大きな影響を与えることとなる。

マフィアのような全身刺青男のデイビットは、どうやら彼にギターを披露したかったらしく、彼の家につき次第さっそく演奏してもらった。その時の男の音に『やばい、めちゃくちゃいいブルースを弾くじゃないか。昔のブルースのスタイルでアコギを指で奏でている!』と感動した彼はアメリカに行ったときには出会えなかったブルースギターの師をやっと見つけ出し弟子入りを志願、庭仕事をする代わりに三週間、一日10時間以上は彼にブルースギターを教えてもらった。

結局庭掃除もたいしてない上に、デイビットもただのジゴロだったため、3週間が過ぎたときに家主に追い出される羽目になるが、別れ際に金を貯めてからの再会の約束をし別れてから約2か月後、デイビットのいる街に彼に会うために当てもなく歩いていると、街を歩くこと1分で奇跡の再会を果たす。自分の運命に感謝をし、そこから2カ月以上も気が狂うほどギター浸けの日々を送る。

2009年(当時25歳)、デイビッドと別れた後、それまではファームの仕事と少しの路上音楽でまかなっていた生活を、『音楽だけで生計を立てよう』と、ストリートミュージシャンとしてバスキングのみで生活することを決意し、パースへと旅立つ。本格的にバスキング(路上音楽)を始めた当初はブルースを演奏していたが、その土地の風土に合わせてバケツやフライパン、ゴミ箱をドラムに見立ててドラミングを行う演奏スタイルへと変化していった。

バスキング生活当初の演奏スタイル

 

『ディジュリドゥ』

 

2011年(当初27歳)、2010年12月に3年ぶりに日本に帰国してから、半年もたたぬうちオーストラリアのパースに戻った。その際、ディジュリドゥ奏者の友人の演奏に宇宙を感じ、感化され練習を始めた。この時のディジュリドゥとの出会いが現在の音楽スタイルの元となっている。同時にパースで東日本大震災の義援金活動を路上で繋がったミュージシャンと共に行う。

パースでのチャリティーバスキングの様子、青のアロハシャツを着たのがYUSUKE。

2011年(当時27歳)の9月には1か月間シンガポールにてジャンベでバスキングを行う。

Clarke Quay of Singapore in September

 

『オーストラリア入国拒否』

 

2012年(当時28歳)にバリ島から大量の楽器と共にパースに再入国しようとしたところ、入国拒否を受け、空港から留置所に送られる。この留置所の中で、突然と野外ライブが始まり、当然のように混ざり、ジャムセッションとなる。皮肉にも、入国拒否を受け、留置所に入れられたことが、人々が言葉の壁を超えて場所を選ばずに交わることが出来る『音楽の力』を再確認することとなる。

 

『日本での活動』

 

2012年4月(当時28歳)に帰国してからは1ST ALBUM『Natural Music』の発表やPV『Bamboo Bosa』『音の泉』『SUKE BLUES』と制作に力を入れると同時に、駅でガムラン(インドネシアの民族打楽器)を演奏し、その場でホテルやレストランからの演奏オファーをもらうなど、路上以外での活動場所も増えていくこととなる。

2012年8月(当時28歳)には北海道アイヌのお祭りである『アイヌもしり』にてステージ演奏、苫小牧のBar Oldにて投げ銭ライブを行うなど、活動の幅を広げる。

In front of Bar Old at Tomakomai Hokkaido of North Japan in August.

Bar Oldにて、縄文トランス3ピースバンド・ラビラビと

 

2012年9月(当時28歳)に音楽修行のため再びシンガポールに渡り、一か月間ディジュリデゥとジャンベでバスキングを行う。

Clarke Quay of Singapore in September.

シンガポールでのバスキング

 

2012年10月(当時29歳)にはバンコクでインドのビザ待ちの3週間、ギター、歌、ハーモニカで流しを行った後、インドに渡りリシケシにて楽器の練習、イベントにて演奏、瞑想、ヨガ、霊気の取得を行う。
この時期、友人のWataと『Namasute Brothers』を結成するが、日本に一時帰国のために解散。

ビートルズも訪れた寺院での瞑想中とNamaste Brothers

 

ヒンドゥー寺院内での演奏

 

Namasute Brothersの演奏レストラン(EAST WEST)にて

 

2013年3月(当時29歳)にイギリス、カナダのワーキングホリデービザ取得のために一時帰国。その間も日本でバスキングと自主制作CDの販売と、音楽活動は止まることがない。

 

『渡英からトロントに』

 

2013年6月(当時29歳)より渡英しノッティンガムやロンドンでバスキングと自主制作CDの販売を行うが、生活が困難になり友人を頼りにカナダへと飛ぶ。

 

イギリスのロンドン(ブリックレーンマーケット)にてバスキング中の一コマ。本人曰く『インドネシアの竹の打楽 器(ティンクリック)は音色はいいけど、演奏してる最中にとても眠くなる。』

 

2013年9月(当時29歳)よりカナダのトロントで現在の演奏スタイルに変えて、ディジュリドゥにドラムとジャンベを合わせるというスタイルで活動し始める。

2013年12月(当時30歳)、年末から元旦にかけて演奏中、あまりの寒さに指を失いかけ、カナダ・トロントの気候の厳しさを体感する。

2012年のBoxing Dayにて、冬の寒さはストリートで活動するミュージシャンにとって命とりである。

 

2014年6月(当時30歳)、自身主催の音楽パーティ、SUKE★ROCK Fesを開催し、回りの人々の協力もあり、大成功を収める。

SUKE★ROCK Fesの様子

 

2014年7月(当時30歳)2nd album “Peace of mind”を発表。同時にAkira Ishitsukaの監督、脚本、撮影、編集下で、PV [Didge Trance]の制作を開始し発表する。同時にアーティスト名をより覚えてもらいやすい『YUSUKE』へと改名する。また、この時期よりスタイリストとしてKazuma Satoがトータルコーディネートを行うようになる。

YUSUKE Interview

 

2014年10月(現在31歳)、マスタリング、ミックスダウンをして新曲Didge Drums, Suke Blues, Dancing Didge, Horn Beat, Tribal Sound, Healing of Animals, Happy Tune, Music High完成。2nd Album [ peace of mind ]前回の曲から6曲差し替え, Album12曲すべてにディジュリドゥサウンドを擢用させた。エフェクトを駆使して、生音と電子音とのコラボレーションを試みる。

2014年11月(現在31歳)までの約一年間、カフェやバー、アートギャラリーやレストランでの演奏と、活動の幅を広げつつも、原点であるバスキングで300本以上のライブに成功する。

 

その国の風土、場所、雰囲気、環境に合わせた音楽スタイルを、現在まで多くの国で培ってきた経験を生かして確立していくYUSUKEの音楽スタイルは、常に進化し続ける。

 

Wrote by Hokuto Aizawa